認知症患者さんの離棟で痛感した、やるせなさと恐怖
「どこにいった? またや。」
昨日、認知症の患者さんが急に病棟からいなくなりました。病院中を探して、ようやく病院の外のベンチで日向ぼっこをしているところを見つけました。
その患者さんは以前から、「家族に連れてこられた」「閉じ込められている」と話していて、入院している理由をうまく理解できず、病棟から出ようとすることが何度もありました。離床センサーをつけても、自分で外してしまうこともあります。こちらも気をつけて見てはいたけれど、ナースコールが鳴れば他の患者さんの対応に行かなければならず、ずっと一人だけを見ているわけにはいきません。
そういうぎりぎりの中で、患者さんは離棟してしまいました。
見つけたとき、まず思ったのは「ここにいててよかった」という安心でした。車にでも轢かれていたら、どうしようもないからです。
でも、そのあとに出てきたのは、「なんでこんなところにいてるんや」という苛立ちでした。散々、勝手に一人で動かないでと言っているのに。もちろん、言っても仕方ないのかもしれません。
その患者さんに「何してるんですか」と聞くと、「あんなところにいてたら息苦しいねん」と答えました。
言いたいことはわかります。病棟の中で過ごすしんどさも、閉じ込められているような感覚も、その人にとっては本当にそうなのだと思います。
病棟に戻るとき、その患者さんは「付き合ってくれてありがとな」と言いました。
その一言は、うれしかったです。患者さんなりの感謝があったのだと思いました。
こういう一面があるから、この患者さんを嫌いになれません。
でも、それでもやっぱり、私の中には別の本音がありました。
勝手なことをせんといてくれ。
冷たい言葉かもしれないけれど、そのときの私にとっては、とても正直な気持ちでした。
患者さんの気持ちはわかる。感謝の言葉もうれしい。だけど、勝手に離棟されるのは困る。何かあれば事故につながるかもしれないし、その先にあるものまで考えてしまうからです。
私がいちばん強く感じていたのは、怒りよりも恐怖でした。
何かあれば、自分のせいになるかもしれない。
その怖さは、今回の出来事だけで急に生まれたものではありません。看護師になってから、ずっとどこかにあった感覚です。
もちろん今回は、結果として大きな問題にはならず、私自身、他の人から強く咎められたわけでもありませんでした。
それでも、離棟後の状況説明や、その後の対応は、だいたい私がすることになりました。
そのときしんどかったのは、対応の手間そのものより、あとから「なんで?」と問い詰められるかもしれない恐怖でした。
なんで防げなかったのか。
なんで見ていなかったのか。
なんでそうなったのか。
そう聞かれたとして、事情を説明することはできます。離棟を防ごうとして見ていたことも、他の患者さん対応があったことも、病棟全体に限界があることも話せます。
ただ、説明したところで、それが本当に理解されるとは思えません。
それに、たとえ理解されたとしても、私はきっと、自分がやらかしてしまったのだと自分を責めてしまう。
だから怖いのだと思います。
それに加えて、今の現状では防ぎきれないことへのやるせなさも残ります。
困るものは困るし、怖いものは怖い。
どうにかしたいけれど、どうしようもない。
看護の仕事をしていると、そういう感情をうまく片づけられないまま、前に進まないといけない場面が多いです。
今回のことも、すっきり整理できたわけではありません。ただ、こうして書いてみると、私の中に残っていたのは、患者さんへの怒りではなく、離棟を防ぎきれないやるせなさと、何かあれば自分のせいになるかもしれない恐怖だったのだと思います。
それに対してどう処理すればいいのか、私にはわかりません。
そんなやるせなさや恐怖を抱きながら、たぶん私はまた、いつものように目の前のことを一つずつやっていくのだと思います。